日比 孝之

組合せ数学講座

Hibi Takayuki

組合せ数学講座

教授 日比 孝之 Hibi Takayuki

組合せ数学講座 日比 孝之名古屋大学理学部数学科卒業。
理学博士(名古屋大学)。
専門は計算可換代数と凸多面体の組合せ論。
名古屋大学に5年6ヶ月、北海道大学に4年6ヶ月在職した後、1995年、大阪大学に着任。
趣味は散歩、楽しみは海外渡航、愛読書は『白い巨塔』である。

1956年、名古屋に生まれる。64歳。定年への秒読みが著しく加速される。阪大に赴任してから、四半世紀を越える歳月が流れた。赴任の頃は63歳が定年年齢だったが、その後、65歳に延長。その四半世紀でやったことは、まず、10人の博士(理学)を誕生させたこと。それから、総額4億円の大型外部資金(JST CRESTと科研費基盤(S))を獲得し、国際会議を主催し、ポスドクを雇用し、当該分野(すなわち、僕の専門分野とその周辺領域)の国際交流の促進と若手研究者の育成に貢献したこと。後は、160余編の論文を執筆したことなどであろうか。博士を誕生させることも、大型外部資金を獲得することも、数学とはまったく無縁のくだらない雑用に時間を浪費することも、もう、やらなくても許されるだろう。今後は、ひたすら、海外渡航と業績を増やすことを楽しみにしながら、数学者を続けよう。2021年3月31日現在、査読有り論文は197編、MathSciNetのCitationsは2815である。査読有り論文が300編を越え、MathSciNetのCitationsが5000に到達すると、可換環論の殿堂入りか?

以下、僕の辿った軌跡を「縁」をキーワードとしながら回顧し、数学者を志す若人へのメッセージとしよう。
  1975年、名古屋市立向陽高等学校卒業。僕の母校はどこにでもある公立の高校、東大・京大合格者数の高校別ランキングなどにその名前が載ることは滅多にない。しかし、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんの出身高校である。
  数学者に憧れを抱いたのは、高校2年生の冬。現役のとき、名古屋大学理学部を受験。物理で撃沈し、理学部には不合格、けれども、第2希望の農学部は合格。少なくとも、母校の名大合格者数には貢献できた。翌年、再挑戦し、理学部に合格。その頃、世間で流行っていた歌は、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」である。今でも、「木綿のハンカチーフ」を聴くと、懐かしい青春が蘇る。
  僕が学部学生だった頃、数学専攻の大学院に進学することはとても困難な厳冬の時代。100名以上が受験し、合格者は4、5名などという凄まじい状況のときもあった。数学科の4年生(1979年)の9月、名大院の数学専攻を受験したが、入試問題は全く解けず、不合格。翌年(1980年)の9月、再挑戦するも、惨敗。私の数学者への夢は儚(はかな)くも消滅。しばらくは呆然としながら、山崎豊子の「白い巨塔」を読んだ。野望に燃える財前五郎(「白い巨塔」の主人公の外科医)の姿は、挫折感に浸る僕を魅了した。1981年、名古屋大学理学部数学科卒業。
  1981年4月、名古屋を離れ、地方大学の大学院に進学。でも、将来の展望がまったく開けず、五里霧中。もう24歳だったし、経済的に苦しい状況に追い込まれていたから、兎も角、生活費を稼がなくてはならない。某予備校で講師を始めた。予備校の講師は、人気が沸騰すると、時間給は爆発的に増大する。駆け出しの頃、50分2800円だったのが、3年後には50分8000円に。だから、4年後には、貯金が500万円になった。30余年も昔の500万円ですぞ!

  今でも忘れはしないが、1981年の秋も深まりつつある頃、[Richard P. Stanley, The upper bound conjecture and Cohen–Macaulay rings, Stud. Appl. Math. 54 (1975), 135–142]に巡り会い、一晩で読んだ。可換環論の抽象的な技法を組合せ論の具象的な問題に劇的に使う、という話で、可換環論に馴染みがあれば、さっと読める。Stanleyの論文を読んだときに覚えた深い感銘は、僕が組合せ論の研究者を志す契機となった。1984年の秋だったか、恩師の(故)松村英之(名大名誉)教授から、名大の助手にならないか、との嬉しい誘いを頂戴した。名古屋大学理学部は、僕を大学院には合格させてはくれなかったけれども、助手には採用してくれたのだ。
  1985年4月、名古屋大学理学部助手。そうすると、就職できないと困ると思ってせっせと貯めた500万円はもはやいらない、ぱっと使うことができる。そのすべてを海外渡航のために使った。
  1985年8月、日米セミナー「可換環論と組合せ論」が京都で開催され、Stanleyが来日し、彼と知り合いになる。Stanleyが41歳、僕が28歳。Stanleyのお陰で、僕は、MIT(マサチューセッツ工科大学)の数学教室に一年間滞在することになる。MITに滞在する際、旅費と滞在費の援助を幾つかの財団に申請したが、いずれも門前払い。結局、すべて自費。さきほどの500万円を使った。

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日米セミナーの宇治平等院観光の記念写真。前列中央が(故)岩堀長慶(東大名誉)教授。もっとも左に立っているのが(故)永田雅宜(京大名誉)教授。

  余談であるが、僕は、岩堀門下でもなく、東大出身でもないが、岩堀さんの人脈の恩恵を授かった。1990年8月、岩堀さんと雑談をしながら、「北大の公募に通ったから、10月から北大に移ります」とお伝えしたところ、「(北大の)◯◯君から、誰がいいでしょうか、と電話があったから、そりゃあ日比君をとるべきだよ、と言ったんだよ」とおっしゃられ、とても驚いた。岩堀さんのその電話の一言がなければ、僕が札幌に住む機会はなかったであろう。
  師匠の松村さんは1990年8月、還暦を迎えた。彼の還暦記念論文集を出版することを出版社に打診したところ、単行本の出版は難しいけれども、国際雑誌Journal of Pure and Applied AlgebraのSpecial Issueとして出版することなら可能である、との返事をもらい、僕とJudith D. SallyがGuest Editorsとなり、松村さんとゆかりの深い数学者に論文の投稿を依頼した。小田忠雄さん(東北大)と宮西正宜さん(阪大)も投稿を快諾してくれた。松村還暦記念号の出版後、North-Holland出版社からの誘いで、僕は、Journal of Pure and Applied Algebraの編集委員になった。
  1990年10月、北海道大学理学部数学教室に赴任。北国のとても美しい街、札幌、そこに4年6ヶ月住んだ。1991年11月から1992年1月、オーストラリアのシドニー大学に滞在し、可換代数と組合せ論の連続講義をした。その講義ノートに加筆したものが[Takayuki Hibi, “Algebraic Combinatorics on Convex Polytopes,” Carslaw Publications, Grebe, NSW, Australia, 1992]である。講義で板書したものをそのまま単行本にしたようなものなので、荒っぽい、誤植がとても多い、など難点はたくさんあり、教科書としての体裁は整ってはいない。反面、当該分野の発祥の地を迅速に散策できる。類似の内容ではあるが、教科書としての体裁を整えた和書が[日比孝之『可換代数と組合せ論』(シュプリンガー東京、1995年)]である。恩師、松村英之教授がその書評をすることになっていた。書評の原稿の〆切りは1995年7月末日だった。けれども、彼は、原稿を完成することなく、8月上旬に登山し、不幸にして、山の事故に遭い他界された。残念ながら、私は、師匠の批評を聞くことはできなかった。
  可換代数と組合せ論とは、凸多面体の組合せ論に現れる数え上げの問題を可換代数の技巧を駆使して解く、というシナリオを持つ研究領域のことで、Stanley の仕事がその源である。たとえば、凸多面体のオイラーの公式 v – e + f = 2 は組合せ論に現れる数え上げの顕著な例である。その他、ピックの公式「平面上に頂点が格子点である多角形があったとき、その多角形に含まれる格子点の個数を a とし、その多角形の内部に含まれる格子点の個数を b とすると、その多角形の面積 S は S = (a + b – 2) / 2 である」も凸多面体の組合せ論に現れる数え上げの例である。オイラーの公式にしても、ピックの公式にしても、可換環論とどうやって結びつくのか、と疑問に思うが、頂点、辺、面とか格子点の数え上げを、単項式の数え上げに置き換えると、多項式環のイデアルの問題に帰着する。
  1994年5月、New Brunswick(New Jersey 州)で開催された組合せ論の研究集会に参加した。講演を終えた日の深夜だったか、時差ボケでウトウトしていると、突然、ホテルの部屋の電話が鳴った。受話器を持ち「ハロー」と言うと、「おでになりましたからお話ください」という女性のオペレーターの(日本語の)声が聞こえ、その後、「日比さんですか?」と聞かれたから、「はい。そうです」と答えると、「阪大の宮西です。至急、日比さんに . . . 」と続いた。青天の霹靂の国際電話であった。


翌年(1995年)の4月、大阪大学理学部数学教室に赴任。北大から阪大に異動する直前の1995年2月、ドイツのOberwolfach数学研究所に於ける凸多面体論のワークショップに参加した後、Jürgen Herzogのところに寄った。まったくの偶然であるが、Herzogの家でお茶しながら、一つの未解決問題を話したところ、彼は、稲妻のごとく、squarefree lexsegment idealの概念を導入すれば解ける(!)と叫んだ。その一瞬の会話から、Herzogとの共同研究が始まった。それから26年間、共同研究は継続され、既に、50編を越える共著論文を執筆している。Herzogは79歳。今でもドイツ可換環論の権威者であり、欧州における彼の影響力は健在である。彼との共同研究を礎とし、単行本[J. Herzog and T. Hibi, “Monomial Ideals,’’ GTM 260, Springer, 2010]を出版した。執筆に費やした期間は約4年間である。

  阪大に着任後、Herzogとの可換環論の共同研究に加え、グレブナー基底の研究を開始した。グレブナー基底とは、多項式環のイデアルの生成系のなかで際立って良い振る舞いをするものである。 イデアルの諸問題を扱うとき、グレブナー基底が計算できれば有難い。たとえば、多項式環の2個のイデアルの共通部分を計算することは、イデアル論の演習問題としてはとても難しいが、グレブナー基底を計算すれば瞬時に計算できる。しかも、イデアルの一つの生成系から出発して、そのイデアルのグレブナー基底を計算するアルゴリズムも知られている。その他、グレブナー基底は凸多面体の三角形分割とも密接に関係し、凸多面体の組合せ論の研究にも有益な道具である。グレブナー基底の基礎理論を簡潔に解説し、凸多面体論への応用を紹介した単行本が[日比孝之『グレブナー基底』(朝倉書店、2003年)]である。

  2008年10月、科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業 CRESTのプロジェクト研究「現代の産業社会とグレブナー基底の調和」(通称、日比プロジェクト)が採択された。研究期間は2014年3月までの5年6ヶ月。研究費の総額は2億5千万円である。純粋数学の外部資金としては破格の予算である。僕の提案が採択されたのは、ひとえに、小田忠雄さんのお陰である。プロジェクト研究では、多項式環と微分作用素環のグレブナー基底の理論と計算を飛躍的に深化させ、理論と応用と計算の有機的な連携から、純粋数学の範疇を越え、統計学の根幹に劇的な変革を導くことに成功している。その変革は、大規模な計算を可能にするアルゴリズムの進化と相俟って、統計学を不可欠とする現代の産業社会と先端科学の諸分野に広範な波紋を及ぼすことが期待されている。写真(右)は、グレブナー基底の創始者Bruno Buchbergerと筆者。


  日比プロジェクトの後続とし、2014年5月、科学研究費補助金基盤研究(S)「統計と計算を戦略とする可換代数と凸多面体論の現代的潮流の誕生」が採択された。研究期間は2019年3月までの5年。研究費の総額は1億5千万円である。
  僕は、国際会議を組織することがとても好きだ。と言うか、僕が国際会議を組織しなければ、当該分野の潮流は滞る、という傲慢な考えを堅持している。1999年7月、阪大の豊中キャンパスに於いて、日本数学会の国際研究集会「計算可換代数と組合せ論」を組織し、StanleyとHerzogら、欧米諸国から著名な研究者を招聘し、スクールとワークショップを開催した。2005年8月、立教大学に於いて、日本学術振興会の国際研究集会「グレブナー基底の理論的有効性と実践的有効性」を開催し、欧米諸国からグレブナー基底の専門家を招聘した。その翌年(2006年4月~2007年3月)は、京都大学数理解析研究所のプロジェクト研究「グレブナー基底の理論的有効性と実践的有効性」を実施。2010年6月、ホテル阪急エキスポパークに於いて、JST CREST 日比チーム主催の国際研究集会「現代の産業社会とグレブナー基底の調和」を開催。2012年7月、京都大学数理解析研究所の研究集会「凸多面体論の現代的潮流」(写真(右))を開催し、Stanley, Gil Kalai, Günter Zieglerら、凸多面体論の大御所を招聘した。2015年7月、心斎橋のホテル日航大阪に於いて、日本数学会の国際研究集会「グレブナー基底の50年」を組織し、Buchbergerらを招聘した。その翌年(2016年4月~2017年3月)は、再び、京都大学数理解析研究所のプロジェクト研究「グレブナー基底の展望」を実施。2017年7月、ホテル日航大阪に於いて、科研費基盤(S)の国際会議「可換環論の展望」(http://commalg2017.jp)を組織し、Herzog, David Eisenbud, Dale Cutkosky, 後藤四郎と筆者を組織委員とし、可換環論の大御所、及び、新進気鋭の若手数学者を招き、華やかな国際会議(写真(下))となった。その華やかさに酔いしれながら、昔の傲慢な考えは消え去り、もう、僕が国際会議を組織しなくても、当該分野の潮流が育まれる土壌は整ったであろうとの心境に到達した。

可換環論の歴史を遡ると、松村の著書[Hideyuki Matsumura, “Commutative Algebra,” Addison Wesley Longman, 1970]は、永田の著書[Masayoshi Nagata, “Local Rings,’’ John Wiley & Sons, 1962]とともに、その後の可換環論の発展に影響を及ぼした。
  松村さんは、1981年9月、堅田の谷口シンポジウム「可換環論」(写真(右))を開催した。我が国の可換環論の国際交流の第一歩である。堅田の谷口シンポジウム、1985年 の京都の日米セミナー、2017年の心斎橋の基盤(S)国際会議は、我が国に於ける可換環論の潮流を彩る国際会議の成功例である。

2020年10月22日、講談社のブルーバックスから「多角形と多面体」(写真(右))が出版された。第1章から第5章は、オイラーの多面体定理、ピックの公式、凸多面体の数え上げ理論など、 高校生を含む一般の読者も楽しめる話題を紹介している。第6章から第8章は、大学院生向けの講義の題材でもある、反射的凸多角形の12点定理、反射的凸多角形の分類理論などを披露するとともに、歴史的背景として、僕の回想録も収録されている。

2019年2月6日(土曜日)、Oberwolfach数学研究所のワークショップからの帰り、Herzogの車でアウトバーンをぶっ飛ばし、RegensburgのKunz邸を訪問した。Ernst KunzはHerzogの師匠、1970年代のドイツに於ける可換環論の発展の礎を築いた。写真(下)はKunz邸の庭で撮影。右から、Herzog, Kunz, 筆者。可換環論3世代の記念写真となった。

略歴

  • 1981 年 名古屋大学 理学部 卒業
  • 1985 年 名古屋大学 理学部 助手
  • 1990 年 北海道大学 理学部 講師
  • 1991 年 北海道大学 理学部 助教授
  • 1995 年 大阪大学 理学部 教授
  • 1996 年 大阪大学大学院 理学研究科 教授
  • 2002 年 大阪大学大学院 情報科学研究科 教授

連絡先

4ケタの電話番号は、大阪大学での内線番号です。豊と表記されたものは(市外局番 06)6850、吹と表記されたものは(市外局番 06)6879 に続けてダイアルすることで大阪大学外からもダイアルインでかけることができます。 ただし、吹(内線)と表記されたものは、大代表(06)6879-5111にかけてください
メールアドレスは、末尾の"osaka-u.ac.jp"が省略されていますので、送信前に"osaka-u.ac.jp"を付加してください。

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